数ヶ月前のヨガでの話。

これは別に「瞑想の中で神秘体験をした!」などという話ではないのですが(笑)。

ヨガスクールの学びの場で、

「人生の目的はどう設定するのか」

という問いに触れる機会がありました。

その場では、

「自分が思いつく範囲の目標だけに縛られなくてもいいのではないか」

「悟りとは、一部の凄い人だけの目標ではなく、私たち誰もが持つことができる」

という考え方が紹介されました。

当時の私はあまりピンと来ませんでした。

悟り…

うーん、

私たちのような一般庶民は、今いる場所だけじゃなく、人生の目的も、大それたことなど中々考えにくいものです。

その時も、私自身も含めて他の参加者の方々も「自分の頭で考えた」身の丈に合うような控えめな目的や目標を口にしていました。

私も内心こう思いました。

私は漫画家になりたいという目標があるから、悟りを目指すのはちょっと違う気がするんだけど…。

凄い人かはともかく、それが道だ、と天啓を受けた人が目指すもので、そうじゃない人も普通にいる。私は天啓を受けたことは無いし、後者だろう。

若しくは、人生の終わりが近付くにつれ、宗教的なものに惹かれてその流れの中で、自分も目指してみようか、と思うこともあるかも知れないけど、それはライフステージ的にも、まだまだ先のような気がする。

そんな感じに思っていたので、その時も

「そうかなぁ?まあ、話半分に聞いておこう」

くらいの受け止め方をしていました。


けれど、その頃から不思議と、日々ヨガに積極的に参加すればするほど、日常のちょっとした嫌なことが減って行くことに気付きました。

最初は、心身のために良いようだ、くらいの気持ちで参加し続けていました。

ところが、そうするとまた流れで、先のような深いレクチャーを受ける。

すると、前回よく分からなかったことが、段々とピントが合うようになって来るのです。

例えば私の場合、

「漫画家になりたいという目標と、世のため人のために行動できることを目標に持つのは少し別物」

という感覚が以前はありました。
けれど徐々に、

「なぜ別だと感じていたのか?そこには認められたいという利己的な承認欲求もあったのかも知れない」

ということが見えて来て、そうすると、誰かに認められるためではなく、

「少しでも人の心が穏やかになる作品を描きたい」というような、もっと深い

「平和を望む心」

から絵や漫画を描きたい、という想いも持てる、と気付きました。それは、今までの考え方を軌道修正する感じでもあり、知らず知らずのうちに視座が高くなるような…

よく見えなかったことが、俯瞰して見えるようになるような。

以前は不安だったことが、そんな必要はなかったし、これからも必要無いのだと、体感で分かるようになる。

なぜなら、少なくとも私自身については、不安の多くは承認欲求から生まれていたのかもしれない。

そんな発見がありました。


そして、そうなると不思議と、悟りという目標を持つことが、誰か別の遠い話ではなく、この私自身も持っていいのだ、と思えるようになって来ました。

しかも、それまでの目標も捨てる必要も無いし、一緒に連れたままで、

日々の生活の中で「悟り」という目標も無理なくプラスする。

そんな温度感でいいのだ、と。

といって、まだ私自身も道半ばどころか、やっと「明るい道を見つけて歩き始めた」ばかりです。

その上、漫画家の夢も叶ったわけじゃない。

けれど今は不思議と、諦めたのでもなく、捨てて別の目標に突き進むのでもない、抱えたままで、でも、それでいいのだ、と穏やかな明るい気持ちで一日一日、

「今日はどんな日にしようか?」

と、これから始まる一日を思い切り楽しめる予感の中で、実際に、その日やりたいと思ったことを一つずつ実行出来ている自分がいます。

悟りという、畏れ多いようにも感じていた目標を胸に宿してみると、その先に漫画家の夢も、いつか無理なく自然に叶っている未来があるかも知れないし、無いかも知れなくても、

それはそれで、今を大切に明るく積み重ねて行けるのなら、この道は間違っていない。

いま私は、日々そんな感覚の中で生きています。